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7-5.万葉集に詠われた熊野 [7.神武東征は史実だった]

古事記・日本書紀が撰上される以前の飛鳥時代に、柿本人麻呂と同時期、持統天皇に仕えていた長忌寸意吉麻呂は、熊野灘沿岸、いわゆる熊野地方の地名を歌に詠んでいる。
  「苦しくも 降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに」3-265  
    困ったことに降ってくる雨だよ。三輪の崎の、この佐野の渡し場には、雨宿りする家もないのに。

 歌人で万葉集の大家でもある斎藤茂吉が「神の崎(三輪崎)は紀伊国東牟婁郡の海岸にあり、狹野(佐野)はその西南方近くにある。ともに新宮市に編入されている」としてから「神の崎 狭野の渡り」は、和歌山県新宮市の三輪崎と佐野が定説となっている。神武天皇聖蹟調査報告でも狹野は、新宮市の佐野に比定している。 

しかし、この歌は万葉集では、柿本人麻呂の近江の歌に挟まれて編集されており、
何故こんなところにあるのかと、万葉の研究者は訝っている。
柿本人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌
  
「もののふの 八十宇治川の網代木に いさよふ波の ゆくえ知らずも」3-264 
    宇治川の網代木に漂う川波は、留まるかと見ればたちまち消え去ってしまい、行方も知れない。 
長忌寸意吉麻呂が歌一首
  「苦しくも 降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに」
3-265
柿本人麻呂が歌一首

  「近江の海 夕波千鳥 汝がなけば 心もしのに いにしえ思ほゆ
3-266      近江の海の、夕波に群れ飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くと、私の心も悲しみにしおれ、遠い昔が思われる。

図20神崎と佐野.jpg明治末年の琵琶湖周辺の郡を示す地図があり、琵琶湖の東岸には神崎郡が載っている。近江の神崎郡の存在は、天智天皇4年(665年)にも記載されている。この郡の琵琶湖沿岸には、島に囲まれた大きな入江がある。この入江は干拓され、現在島とは陸続きとなっている。入江の東南奥の、JRの能登川駅の側に佐野町がある。
 

長忌寸意吉麻呂の歌は、近江の歌として「
神の崎=神崎、狹野=佐野、渡し=入江の傍」を満足している。また、柿本人麻呂の近江の歌に挟まれて編集された理由が理解出来る。この歌でもって、神武東征に出て来る神崎(三輪崎)・佐野が新宮市に   (図をクリックすると大きくなります)
あった証拠にはなり得ない、地名は
平安時代に名付けられたと
推定する。


持統天皇の宮廷歌人であった柿本人麻呂が詠んだ歌に「熊野」の地名が出て来る。
次の二首は同じ時に詠われているが、何時詠まれたかは記載されていない。
  「み熊野
  浦の浜木綿 百重なす  心は思へど 直に逢はぬかも」4-496
   
熊野の浜辺の浜木綿のように、幾重にも、心で思っていても、直接合う機会がないとは。 
  「いにしえに
ありけむ人も我がごとか 妹に恋ひつつ 寝ねかてずけむ」4-497  
    昔に 生きていた人も 私と同じように 妻を恋い慕って 眠れなかっただろうか。 

柿本人麻呂は、持統天皇の大宝元年(701年)の二度目の紀伊行幸に、牟婁の湯(白浜温泉)まで同行し、次の二首を詠っている。

  「黄葉の 過ぎにし児らと 携はり 遊びし磯を 見れば悲しも」
9-1796
   
もみじが散るように 亡くなってしまった妻と かつて手をつないで 遊んだ磯を見ると悲しい。
  「塩気立つ 荒磯にはあれど 行く水の 過ぎにし妹が 形見とそ来し」
9-1797  
    潮の香りがする 荒い磯ではあるが 亡くなった妻の 形見と思ってやってきたのだ。 

前の二首は愛しい妻への思いを、次の二首は亡き妻への思いを詠っている。その妻は692年の持統天皇伊勢行幸に同行していた。都に留まった柿本人麻呂の歌。
 
  「潮騒に 伊良湖の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を」
1-42
     
潮騒のなかで 伊良湖の島辺を 漕ぐ船に 妻も乗っていることだろうか 荒島の周りを 

柿本人麻呂の妻は、持統天皇に仕える女官であった。「み熊野の
  浦の浜木綿」の歌は、690年の持統天皇の紀伊行幸のときに、二人が同行していて知り合い、牟婁の湯で詠ったのであろう。白浜には浜木綿が自生しており、歌が詠われた場所として似合っている。飛鳥時代に田辺・白浜が熊野と呼ばれていた証拠である。
 

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