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6-4.天の岩屋神話は皆既日食 [6.実在した神代の世界]

神話の中で、高天原において天照大神が素戔鳴尊の狼藉を怒られ、天の岩屋に閉じ籠られた話は良く知られている。これは何を物語っているのであろうか。これらについては、死亡説・火山説・冬至説・日食説があるが、神話には国中が常闇となり夜昼の区別も分らなくなった」と書いてあり、日食説が有力と考える。 

表10弥生の日食.jpg現在の天文学では過去に日食があった日と、その場所を知る事が出来る。天照大神が存在したと考えられる倭国大乱前後の、北九州近くで起こった日食を調べたデーターがあった。夜昼の区別も分らないほど太陽が全て隠れてしまう日食が起こるためには、皆既日食の中心が通過するか、正午頃に金環皆既食が通過する場合である。また、日食は西から東に移動している。
                                                     (表をクリックすると大きくなります)

北部九州地域で日中に皆既日食の中心が通るのは、158年の皆既日食のみである。
天照大神が天の岩屋に閉じ籠られた話の起源は、158年の皆既日食だと考える。邪馬台国北九州説の安本美典氏は、卑弥呼を天照大神であるとして、卑弥呼の亡くなった247年にあった皆既日食と、天岩屋の伝承とを結び付けておられる。この日食は北九州では日没直前に起っており、神話の記述と合っていない。 

天照大神が籠られた天の岩屋の前で、榊の枝に八咫鏡と五百箇の御統が掛けられた。「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.)とされている。八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった。神話の天の岩屋の話は、天照大神が亡くなられ、平原遺跡の周溝墓に葬られた時、ちょうど日食と重なったということかもしれない。 前原市の平原遺跡を発掘された原田大六氏は、平原方形周溝墓を天照大神の墓に比定している。私も原田氏に近い考えを持つが、原田氏は天孫降臨した日向は、早良平野と糸島平野の境にある日向峠として、天照大神が玉依姫であるとしており、神話の解釈が私とは異なっている。

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