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4-1.卑弥呼を共立した国々 [4.卑弥呼は何故共立されたか]

女王卑弥呼が誕生した経緯については、魏志倭人伝は「その国、本また男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」と書いてある。倭国は男子王を抱く連合国家で、70~80年続いていた。しかし、連合国の国々が互いに戦いをはじめ、倭国が乱れて何年も経た、戦いに疲れた国々は、卑弥呼と言う一女子を倭国の王に共立し、連合国家として平和を取り戻した。 

卑弥呼を女王に抱く連合国家は、女王卑弥呼の邪馬台国、連合国を取り仕切る伊都国、大国として重鎮の奴国と投馬国、帯方郡との交通の要所である対馬国・一支国・末盧国、そして伊都国の補佐役と考えられる不弥国の8カ国である。これらの国々は平安時代に出来た「延喜式」に書かれた国々と一致する所も多い。邪馬台国は日向国、投馬国は薩摩国、対馬国が対馬国、一支国が壱岐国である。ちなみに、邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国は大隅国となる。しかし、伊都国・奴国・末盧国・不弥国は平安時代の国々とは一致していない。 

表7 魏志倭人伝の国々.jpg平安時代の国々より以前の国と言えば、その原型と考えられる国造がある。先代旧事本紀の国造本紀に記載された国造と、魏志倭人伝に記載された国々を比較し表7に示した。魏志倭人伝に記載された9ヵ国、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国・狗奴国と国造が一致しており、またその所在地も、私が特定した地域とほとんど同じである。特に注目に値するのは、多くの学者・研究者が間違いない     (表をクリックすると大きくなります) だろうとした、福岡県糸島市の伊都国、春日市の奴国に相当する、国造は存在しないのである。福岡県の国造は瀬戸内海に面した行橋市にあった豊国を除くと、福岡県八女郡の筑紫だけである。これらより、私が特定した9ヵ国が、客観的史実により証明できたと思われる。

魏志倭人伝には卑弥呼を女王に共立した倭国の国々として、「女王国以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。次に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に弥奴国あり。次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり。次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり」と、21ヵ国の国々をあげている。

邪馬台国の領域を宮崎市以北の宮崎県、いわゆる日向の国と、伊都国から邪馬台国への行程で陸行した地域、現在の熊本県人吉盆地と、宮崎県南部のえびの高原地方を含んだものと考えた。この場合、邪馬台国の南に存在するのは、大隅半島に比定した敵対する狗奴国と、薩摩半島に比定した友好国の投馬国だけになる。邪馬台国と同盟関係にあった国々は、投馬国以外全てが、邪馬台国の北にあることになり、「女王国以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」とした、21ヵ国の位置の関係が倭人伝と一致してくる。
 

魏志倭人伝に記載された9ヵ国が国造と一致するならば、邪馬台国の以北にあった21の諸国も、国造として存在するはずである。九州にある国造は全部で19ヵ国、表7に示した9ヵ国の国造を除くと、10の国造である。これでは21ヵ国とは合わない。邪馬台国の支配していた国々は、本州の地域も含まれていたのだろうか。そこで頭に浮かんだのが、哲学者和辻哲郎博士が唱えた、「銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏」であつた。図8に示す。近年「銅剣・銅矛文化園」とされ、銅鐸が出ないとされていた九州地方から、銅鐸の鋳型や銅舌のある小銅鐸が発掘されているが、これらは銅鐸の原形の「かね」として出来た朝鮮の小型銅鐸の系統であり、1.3メートルにおよぶ高さまでにも発達した銅鐸とは異なり、銅鐸とは扱われていない。

図8銅剣・銅矛文化.jpg卑弥呼が共立した倭国の国々は、九州を中心としてあったが、その九州は銅剣・銅矛文化圏に属している。九州以外で銅剣・銅矛・銅戈が多数出土するのは、出雲と吉備の中国と四国である。四国は「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり。」と、邪馬台国との同盟の関係には入っていなかった「
倭種」の国と比定した。出雲の荒神谷遺跡からは銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土しており、出雲が「銅剣・銅矛文化園」と「銅鐸文化園」の接点であった事を証明している。
                              (図をクリックすると大きくなります)
これらより、卑弥呼を倭国の女王に共立した21ヶ国の国々は、銅剣・銅矛文化園にある、出雲と吉備以西の中国地方と、大隅半島を除く、九州と考える事が出来る。九州と中国地方の国造と一致するか、前述の9ヵ国の国造を除いて、平安時代の国別に分けてみた。  
国 名 国 造(現在地)
肥後国 葦北(八代市)・天草(松島町)・火(竜北町)・阿蘇(一の宮町)
肥前国 葛津直(藤津郡)
豊後国 大分(大分市)・国前(国東町)・比多(日田市)
豊前国 宇佐(宇佐市)・豊国(行橋市)
長門国 穴門(下関市)・阿武(阿武町)
周防国 波久岐(山口市)・都怒(徳山市)・周防(布施町)・大島(大島郡)
安芸国 安芸(府中町)
石見国 石見(浜田市)
出雲国 出雲(松江市)
美作国 美作(津山市)
備後国 吉備品治(福山市)・吉備穴(神辺町) 
備中国 吉備中県(井原市)・笠臣(笠岡市)・下道(真備町)・加夜(総社市)
備前国 三野(岡山市)・上道(岡山市)・大伯(邑久町) 

出雲・吉備以西の国造(除く九ヵ国)は全部で29ヵ国あり、邪馬台国以北の21ヵ国より8ヵ国多い。魏志倭人伝に書かれた邪馬台国以北の21ヵ国は、国造と一致しないのであろうか。日本書紀の応神天皇22年に次の記事がある。「吉備国を割いて、その子どもたちに治めさせられた。川島県を分けて長子の稲速分に。これが下道臣の先祖である。次に上道県を中子の仲彦に。これが上道臣・香屋臣の先祖である。次に三野の県を弟彦に、これが三野臣の先祖である。また波区芸県を、御友別の弟鴨別に。これが笠臣の先祖である。苑県を兄の浦凝別に。これが苑臣の先祖である。」 

岡山平野に存在した国造は、備後国にある吉備品治・吉備穴、備中国にある吉備中県・笠臣・下道・加夜、備前国にある三野・上道・大伯の9ヵ国である。これらの国造のうち応神天皇22年の記事に出てくるのが、笠臣・下道・加夜(香屋)・三野・上道の6ヵ国である。大和朝廷設立当時、岡山平野にあった国造はもともと吉備国として一つの国造であったと思われる。延喜式で定められた備前国・備中国・備後国にあった国造を吉備国1ヵ国とすると、邪馬台国以北の21ヵ国は、出雲・吉備以西の国造(除く九ヵ国)と一致した。 

卑弥呼を倭国の女王に共立した21ヶ国の国々は、銅剣・銅矛文化園にある国造と一致した。倭国の連合国は出雲・吉備以西の中国・九州にある、後の国造となる国々であった。


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