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3-6.伊都国は倭国の中心 [3.邪馬台国を解く]

それでは伊都国に続く奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国への道を歩んでみよう。魏志倭人伝は次の様に書いている。「東南奴国に至る百里・・・二万余戸あり」、「東行不弥国に至る百里・・・千余戸あり」、「南、投馬国に至る水行二十日。五万余戸ばかり」、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所。水行十日陸行一月・・・七万余戸ばかり」。魏志倭人伝の原文では「邪馬壱国」となっているが、通説では「邪馬台国」とされており、私も「邪馬台国」として扱う。 

図4邪馬台国への行程.jpg
伊都国以降、邪馬台国への行程について二つの考え方がある。それを図4①と②に示す。一つは図4①のように、伊都国・奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国と直列的に考える方法と、もう一つは榎一雄氏が初めて提案した考え方で、図4②のように、伊都国以降については伊都国を中心に放射線状に、奴国・不弥国・投馬国、邪馬台国が関係しているという考え方である。
        (図をクリックすると大きくなります)
 
私はこれら邪馬台国への行程について次のように考える。まず魏志倭人伝の原文を見ていただきたい。 
    始度一海千餘里
對馬国
    又南渡一海千餘里名曰瀚海一大国
    又渡一海千餘里末盧国
    東南陸行五百里伊都國
    東南奴国百里
    東行不彌国百里
    南投馬国水行二十日
    南邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月 

伊都国までは距離が「至」の前にあり、奴国以降は方角が「至」の前にある明らかに伊都国までと、それ以後では関係が違っていると思われる。「至」の字が伊都国のみ「到」になっているのも意味があるのかも知れない。また伊都国は、「世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり」。そして、「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」と記載されている通り、伊都国は倭の30ヵ国の中心となる位置にあると思われる。極めつけは次の文章にある。「王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」

吉野ヶ里遺跡の所で述べたが、この文書から伊都国に港があり、女王国から帯方郡への貢物が、また、帯方郡から女王国への賜り物が、船から陸揚げされたり、船に積みこまれたりしている。まさに「南至邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月」の文章にある邪馬台国への水行は、伊都国より船出した事を示している。私は伊都国以降の奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国は、伊都国を中心とした、放射線状の関係にあったと想定する。伊都国から邪馬台国の行程を水行で10日、陸行すると1ヵ月と並列的の考え方もあるが、私は水行10日と陸行1ヵ月かかると直列的に考える。また図4②で、陸行を水行と直角に方向をかえたのは、邪馬台国への陸行は、上陸地点から陸地側の東の方角に進んだと思えるからだ。

さて、魏志倭人伝に書かれた諸国の比定を進めてみよう。「東行至不彌国百里」、始めに不弥国から取り組む。吉野ヶ里遺跡から東に進むと、筑後川を挟んで対岸に久留米市を見る佐賀県の東端鳥栖市に至る。この鳥栖市付近が不弥国と考える。神埼駅から鳥栖市までの鉄道距離は16キロメートル、前述の陸行の定理「陸行千里は、20日の行程。鉄道距離で約120キロメートル」から換算すると、133里、百里にほぼ近い値となっている。
考古学から見ても鳥栖市付近からは、整然と並べられた12本の矛が発掘された検見谷遺跡や、銅矛・銅鐸の鋳型が出土し、鋳造工房跡と見られる安永田遺跡がある。また、弥生時代最大の建物跡や大量の甕棺墓が見つかった柚比木村遺跡もある。吉野ヶ里遺跡から鳥栖市の方角は東北東に当たるが、魏志倭人伝の通りの東と言えよう。方角の目標としては、途中に障害物もなく直接に不弥国の方向を示す事になり、指でさし示すとすると、筑後川の河筋、東の方向にしたであろう。 

「東南至奴国百里」、奴国の都は福岡県八女市付近にあったとする。突然ここで「都」と言う言葉を使った。それは奴国がこれまでの諸国、「対馬国・千余戸、一支国・3千戸、末盧国・千余戸、伊都国・千余戸、不弥国・千余戸」に比べて戸数が非常に多く、「2万余戸」と書かれているからである。八女市は吉野ヶ里遺跡から見て東南の方角にある。方角の目標としては途中に視界を遮るものもなく都を直接示し、目標物としては、八女市の後方にある筑肥山地の姫御前岳(596メートル)であろう。不弥国と同じ百里の距離であるが、そこまでの行程は少し違っている。 奴国へは「東南」、不弥国へは「東行」。方角だけでなく「行」の字が違う。吉野ヶ里遺跡から鳥栖市へは徒歩で行けるが、八女市には筑後川があるため直接徒歩では行けない。そのため方角のみを示したと思われる。鳥栖市へは直線距離で15キロメートル、八女市へは20キロメートルで、両者を百里としても大きな間違いはないと思う。都を八女市とした奴国の範囲は、福岡県の南西半分、博多湾と有明海を結ぶ西鉄大牟田線(博多から大牟田)沿線一帯であると考える。もちろん、定説が奴国とした福岡市・春日市も入っている。 

「南至投馬国水行二十日」、伊都国に港が在ったことは前述した。当時、伊都国と仮定した吉野ヶ里遺跡の近くまで有明海が来ていた。その港から南に水行20日で投馬国。水行とは海岸に沿って舟で航海する事であると言う解釈そのままに、有明海を九州西岸に沿って南下する。まさに、魏志倭人伝の通りである。水行20日ではその距離が判らないので、場所の特定が出来ない。そこで、水行の定理を決め、その定理通りに解釈していくとする。その水行の定理とは、「水行は陸行の2倍進む」、「水行千里は10日の行程。直線距離で120キロメートル」と定める。 投馬国までは水行20日、240キロメートルとなる。吉野ヶ里遺跡付近から当時の筑後川河口を通り、大牟田市を通って熊本市の沖から、当時島であったと言われている宇土半島の付け根を通り、八代・水俣・阿久根市を経て、川内川を少し遡行した鹿児島県川内市が200キロメートルの行程になる。定理通りに計算すると、水行17日となるが川内市付近を投馬国の都と考える。都としたのは投馬国が5万戸の戸数を持ち、奴国同様に大きな国と考えるからである。投馬国は平安時代に出来た「延喜式」に書かれた「薩摩国」、現在の薩摩半島を主体とする、鹿児島県の西半分の領域であると想定する。

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