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3-5.伊都国は吉野ヶ里遺跡 [3.邪馬台国を解く]

末盧国からの方角「東南」は魏志倭人伝に矛盾しない。それでは距離5百里はどうであろうか。魏志倭人伝に書かれた時代、伊都国あるいは邪馬台国を訪れた帯方郡の使者は、国と国の距離をどのようにして測ったのであろうか。巻尺や万歩計に相当するもので、距離を測定しながら歩いたわけでもないだろう。行程に要した日数と、1日の歩行距離から割り出したに違いない。 

私は学生時代ワンダーフォーゲル部に所属し、山道・野道・道路あるいは道なき道を歩いた。1時間に歩く距離は4キロメートルが標準。平坦な道路なら時速6キロメートル、山道ならば2~3キロメートル、藪漕ぎと言われる道なき道を進む時は、1時間に1キロメートルも進めない場合もある。 

「唐六典」には1日の歩行距離は50里とある。中国では古代から隋代まで、6尺を1歩、300歩を1里とし、1里が1800尺となっていた。唐の時代の1尺は31センチであるから、1日の歩行距離も50里は約28キロメートルとなる。これは4キロメートルの歩行速度で7時間歩いた事になる。若者でもこの行軍が毎日続けばバテてしまうだろう。 

魏の時代は1尺が24センチなので、1日の歩行距離を50里とすると、約22キロメートルになる。これは3.5キロメートルの歩行速度で約6時間である。旅程中の日照時間が12時間とすると、日の出から出発までに2時間、昼食1時間、宿営地に着いて日の入りまでに3時間、1日の歩行時間は6時間になる。これならば無理のない陸行が出来る。魏志倭人伝を書いた陳寿の頭の中には、1日の行程は50里とする公式があったのだろう。末盧国から伊都国に行くのに10日かかったという報告に対し、「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」の文章が出来たと思われる。 

末盧国と特定した唐津市の西唐津駅から唐津線を経由して佐賀駅へ、そこから長崎本線経由で、吉野ヶ里遺跡の近くにある神埼駅までの鉄道距離は約60キロメートルである。歩行した道程は鉄道距離の2倍、120キロメーターあったと考える。10日かかったのであれば、1日の歩行距離は12キロメートル、時速2キロメートルとなる。末盧国から伊都国の道の状態は、人が何度も通った道といえども、木々を切り倒す刃物もあまり発達していなかった時代、川沿いの道では、魏志倭人伝の末盧国の様子にある「草木茂盛して行くに前人見えず」のごとくであり、山側では対馬国の様子にある「道路は禽鹿の径の如し」であったと思われる。これらの道を歩く速さが時速2キロメートルは妥当と考える。 

この様な計算で、「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」を証明したとは思わない。ただ、ここで使った距離と日数の関係が、他の諸国の比定にも共通して使えなければならないという事である。方角に対して定理を定めたように距離にも定理を定める。1日の歩行距離は50里が基本で「陸行千里は、20日の行程。鉄道距離で約120キロメートル」である。魏の時代の1里は1800尺、432メートルである。この定理の1里は120メートルでちょうど500尺にあたる。同じ1里でも距離が違っている。 

これを理解するためには、私達の頭を切り替える必要がある。例えば、A地点とB地点の間を考える場合、現在では「距離」と言う尺度で、その遠いか・近いかをイメージする。古代では行くのに何日かかるかという「日数」で、その遠いか・近いかをイメージしたと考える。そして「日数」を長さの単位に直すとき、陸行の1日は50里とて換算した。しかし、道の状態によって1日に進む直線距離が異なる。道路が整備され道では22km、山道や草木をかきわけ進む道では、その半分か進まない。だから、同じ50里でも実際の距離は違ってくる。魏の都洛陽から遥か離れた僻地では、実際に進む距離は1里を5百尺で計算すれば、だいたいの直線距離が出るとしたのであろう。 

さて、伊都国を吉野ヶ里遺跡に特定した場合、「陸行」の必然性が生じるであろうか。末盧国から伊都国へ船で行くとすれば、松浦半島の先端から平戸の瀬戸を通り、佐世保沖から長崎沖を通り、野母崎を回って有明海に入り、筑後川の河口めがけて北上した航路となる。この間の距離は約300キロメートル、徒歩10日間の行程より、早くて安全とは言えない距離である。弥生時代の筑後川の河口は、現在よりも15キロメートル内陸部に入っていたと考えられているが、有明海の奥まで朝鮮海峡を横断してきた船が、入れたであろうか。伊都国を吉野ヶ里遺跡に特定した場合、「陸行」は妥当性があると考えられる。 

吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかと注目されたのは、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の記事と合致したものが多数発掘されたからである。
1)塚(巨大墳丘墓が二つ発見された)
  
    「卑弥呼以に死す。大いに冡(つか)を作る。径百余歩」
2)棺(二千を超す甕棺が発掘された)  
    「その死には棺あるも槨なく、土を封じて冢を作る」
3)宮室・楼観・城柵(宮室・物見やぐらと思える建物跡、V字型の外溝と柵)  
    「宮室・楼観・城柵厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」
4)邸閣(外溝の外側に大規模な高床式倉庫跡)  
    「租賦を収む。邸閣あり」
 

吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかという国民の期待は大きかったが、多くの学者・専門家の意見は、邪馬台国ではないが魏志倭人伝に記載されている、倭の30ヵ国の一つであるとしている。魏志倭人伝に出てくる諸国の中で、邪馬台国に最も似ている国と言えば、「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」の文章の通り、女王国より派遣された役人が常に駐在していた伊都国であると考えられる。また、「伊都国に到る。(中略)世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり」のように、伊都国に帯方郡の役人が往来時に常に駐在していたことからして、伊都国の様子を、邪馬台国の様子として報告したとさえ考えられる。考古学的に見ても、吉野ヶ里遺跡が伊都国であるとの推定には肯定的である。
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