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3-2.帯方郡から末盧国への船旅 [3.邪馬台国を解く]

邪馬台国の卑弥呼を書いた魏志倭人伝は、日本の古代史を語る上であまりにも有名である。この魏志倭人伝は中国の三国時代、220年~280年について書かれた正史「三国志」の魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻の中の「魏志」の「東夷伝」にある「倭人条」の事である。この「三国志」は285年の頃に陳寿により編纂されたが、この陳寿は魏・呉・蜀の三国が連立し、天下に覇を競っていた時代、また、女王卑弥呼の使いが魏の都、洛陽を訪れた時代に生きていた生証人でもあった。 

それでは魏志倭人伝の読み下し文をもとに、「帯方郡」から「邪馬台国」への道を辿ってみる。この読み下し文は、岩波文庫・石原道博編訳・新訂魏志倭人伝を参照した。「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」 

出発地の帯方郡は、韓国京畿道の臨津河口付近、ソウル近郊とされていたが、北朝鮮黄海道の鳳山郡文井面九龍里、沙里院近辺の墓から「帯方大守張撫夷」という墓誌が発見され、帯方郡は鳳山郡にあったとする見解が多くなって来ている。帯方郡の都は、平壌の南、大同江河口付近であったと想定して、倭国への旅を出発する。韓国の沿岸を南に水行し、そして韓国南東端の珍島から東に転じて水行すると狗邪韓国に至る。狗邪韓国は対馬に最も近い現在の釜山、あるいは金海と考える。 

帯方郡から倭国に到る道程の中で、「始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る」、「居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、森林多く、道路は禽鹿の径の如し」、「千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と表現された「対馬国」ほど、その地名といい、位置といい、島の様子といい現在の長崎県の「対馬」と比定して異論のある人はいないであろう。魏志倭人伝に出て来る諸国のうち、一番明確に比定出来る国と言って過言ではあるまい。 

図1倭人伝の国々.jpg対馬国より次の一支国へ進もう。魏志倭人伝には「また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国に至る」とある。島の様子は「方三百里ばかり竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴(してき)す」となっている。対馬の南に有る島と言えば、それは壱岐でしかない。地図で見ると、対馬より壱岐のほうが、山が少なく平坦であり、そのことが文章にも表れている。原文では「一大国」と書かれているが、それが壱岐に相当することから、「一支国」の間違いではないかとするのが通説であり、私も「一支国」と表現する。 

一支国から末盧国へは「また一海を渡る千余里、末盧国に至る」とあり、方角は示されていない。しかし一支国の、国の様子に「南北に市糴す」と記載されてあり、一支国から見て北が対馬国、南が末盧国と云うことになる。壱岐を出た船は南に進路を取り、松浦半島の沖合にある島々を目指したであろう。そして、半島先端に航路を取り、その後半島にそって唐津湾を進んだに違いない。私は、末盧国は唐津付近にあったと考える。 末盧国の様子は魏志倭人伝に「四千余戸あり。山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」とある。「山海に浜うて居る」等、唐津湾内にある虹の松原の砂浜をほうふつさせる。唐津湾内には松浦川が流れ込んでおり、「草木茂盛し、行くに前人を見ず」のイメージは合っている。地名からしても、「末盧・マツロ」と「松浦・マツウラ」の語呂が似ている事から、唐津平野に末盧国を想定する人も多い。 

考古学からみても唐津平野には菜畑遺跡があり、ここが末盧国の中心地であったと考えられている。菜畑遺跡には弥生前期から末期までの水田遺跡があり、農耕技術の発達していた様子がうかがわれる。菜畑遺跡にかかわらず唐津平野には、弥生前期の支石墓が多く発見されている。また、遺物としても、弥生前期の朝鮮半島製の細見の銅剣・銅矛や、弥生中期から邪馬台国のあった弥生後期の国産の銅剣・銅矛と、舶載あるいは国産の鏡が出土している。

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