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3-1.邪馬台国は纒向か [3.邪馬台国を解く]

平成21年11月、奈良県桜井市の纒向遺跡から、3世紀前半~中頃の大型建築跡が出土し、これこそ邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿跡ではないかと大騒ぎになった。そして、明治以来長らく続いてきた邪馬台国論争も、畿内説で決着かとマスコミは報道している。多くの研究者が邪馬台国畿内説を指示されているのは、纒向遺跡の大型建物跡のみならず古墳や鏡、そして土器の研究からである。畿内説で一番足りなかったのが大型建物跡であり、その意味では纒向遺跡での今回の発掘の意義は大きい。 

邪馬台国の畿内説の最も大きな弱点は、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国への行程の方角と里数や日程が合わないことだ。畿内説をとなえる研究者の方々は、これらについては、魏志倭人伝の記述に間違いがあるとして信用していない。もちろん、魏志倭人伝には倭国の地名や人名について、聞いた言葉を漢字にする場合の誤記もあり、写本などの転記ミスもあろうが、それらは出来る限り最少でなければならない。そもそも我々が邪馬台国や卑弥呼の存在を知る事が出来たのは、魏志倭人伝に記載されてあるからであり、それに記載されている方角と里数や日程が信用できないと言うのもおかしな話である。 

そうかと言って、邪馬台国九州説(北部九州)では、邪馬台国への行程の方角と里数や日程が、ピッタリ合っているかと言えばそうでもない。畿内説が広く見ても奈良盆地の内のどこかであるのに対して、北部九州説では、旧国名で言うと筑前の博多湾側、筑前の内陸側、筑後、豊前、肥前の有明側と様々である。このように候補地が大きく異なっているということは、邪馬台国への行程の方角と里数や日程の解釈が色々あると言うことになり、ピッタリ一致してはいないようだ。 

現在、邪馬台国論争の中で、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程を云々する研究者は少なく、魏志倭人伝の記述からは何も生れて来ないと言う考えが支配的である。本当にそうだろうか。私は技術屋として長年仕事に従事してきた。それらの中で体得したことは、長年解決していない問題は、これは間違いないとしている根本が間違っていた時だ。そんな問題が邪馬台国への行程の解釈に潜んでないだろうか。原点に帰って、魏志倭人伝に挑戦してみる。
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