SSブログ

1-8.事実は小説より奇なり  [1.日本書紀の編年を解く]

私が作成した元年表の編年方法は、ただ天皇の即位の年を決めるだけではなく、書紀に書かれている全ての記事の編年を行うことが出来る。日本書紀の記事には、絶対年で正確な記事、絶対年を干支2廻り繰り上げた(元絶対年)記事、そして累計で900年の延長がなされている記事が混じり合って、歴史書として成り立っている。

日本書紀原典を見出すためには、絶対年の記事はそのまま「年」、元絶対年の記事は干支2廻り繰り下げた「年」に編年し、累計900年延長された歴史は正しい姿に縮小して編年しなければならない。
次のカテゴリーの「日本書紀原典の再現」に、日本書紀に記載された記事を全て網羅し、歴史の延長がなされる以前の、日本書紀原典と言うべき年表を示す。

絶対年で正確な記事は、記載年号欄に太字で「天皇名+年号」を示し、元絶対年の記事は細字で表記し、記載内容については太字とした。太字の記事は、元の年号から切り離されるため、その記事に登場する人物に矛盾が生じる場合があり、その人物については斜め文字で記載している。それらの適用を受けた人物は意外と少なく、「神武天皇の崩御」が「卑弥呼の死」であった事と、応神天皇の皇太子「菟道稚郎子」が仁徳天皇の皇太子「去来穂別尊」に変わっただけである。

歴史学者・考古学者、そしてアマチアを含めて、日本書紀・古事記を解読し、その編年を試みている人は多数いる。しかし、それらのほとんどは天皇の即位の編年を行っているだけであり、記紀に書かれた事柄が何時の事か、その整合性があるかまでは記載していない。私の元年表は日本書紀に書かれた全ての記事を網羅しており、日本書紀の原典が再現出来たと自負してる。 

表4神武・崇神.jpg日本書紀原典の神武天皇と崇神天皇の欄を表4に示す。驚く事に、日本書紀原典は魏志倭人伝記載の倭国の女王卑弥呼が、魏に朝貢の使いを遣わした239年から始まっている。そして、魏の使者が詔書・印綬を倭国に届けた翌年の241年・辛酉の年に、神武天皇が橿原の宮で建国をし、卑弥呼が亡くなった248年に、神武天皇が崩御している。また、崇神天皇の時代に、倭の女王(壱与)が晋に朝貢している。邪馬台国と大和王権、卑弥呼と神武天皇、壱与と崇神天皇が深くかかわり合っている事が分る。まさに、「事実は小説より奇なり」である。


(表をクリックすると大きくなります)


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 1

あれま

神武と崇神は女だったのか??
by あれま (2013-07-06 08:17) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。