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1-3.干支2廻り繰り上げた編年 [1.日本書紀の編年を解く]

神功46年(246年)から神功56年(256年)は、百済の肖古王と息子の貴須王に関する記事がある。三国史記によると、近肖古王が在位したのが346年~375年で、近仇首王(諱[いなみ]は須)が即位したのが375年である。肖古王と近肖古王、貴須王と近仇首王は同一人物で、書紀は干支2廻り(120年)繰り上げた編年(元絶対年と呼ぶ)を行っている。 

神功46年(246年)、元絶対年367年に百済の肖古王が斯摩宿禰の使者に鉄鋌を与えたとある。橿原市の南山4号墳から20枚の鉄鋌と朝鮮半島南部の伽那系陶質土器が出土し、5世紀前半の古墳とされている。須恵器の生産開始年代は5世紀前半との定説が、近年390年頃までに繰り上がった。伽那系陶質土器がもたらされたのが、須恵器の生産開始以前とすると、南山4号墳は390年以前の古墳と考えられる。南山4号墳の鉄鋌は肖古王から送られたものかも知れない。 

書紀には、神功52年(252年)、元絶対年372年に百済の肖古王が使いを遣わし七枝刀一口等を奉っている。天理市の石上神社には、左右に段違いの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分れている、国宝の七支刀がある。七支刀には金象嵌がされており、「泰和四年」「百滋(百済)王」「為倭王旨造」の文字がある。中国では泰和四年の年号がないので、東晋の太和四年(369年)と考えられている。書紀の元絶対年と記述は正確である。ただし、天皇の年号は信頼おけない。 

神功62年(262年)襲津彦が新羅を討つ、神功64年百済貴須王薨じ枕流王即位、神功65年枕流王が薨じ辰斯王即位、これらの記事は382~385年で干支2廻り繰上げられている。そして、神功69年(269年)神功皇后が崩御した、この年太歳己丑とある。書紀では天皇が即位した年には太歳干支があるが、崩御で太歳干支があるのは神功皇后だけである。神功皇后は元絶対年389年に崩御したと解釈する。 

元絶対年の記事があるのは、神功記だけでなく応神記にも沢山ある。応神3・7・8・9・14・15・16・20・25・28・31・37・39・41年である。三国史記でみると、百済の阿華王(392~405)・直支王(405~420)・久爾辛王(420~427)の時代である。 

中国吉林省集安県の鴨緑江の江畔に広開土王碑がある。これは高句麗の広開土王(好太王:392~413)の業績を讃えるため息子の長寿王が建立したものである。この碑文には「倭以辛卯年来海渡破百残□□新羅以為臣民」、辛卯年(391年)に倭が海を渡って来て百済・□□・新羅を臣民としたとある。書紀には応神3年(272年)、元絶対年392年に百済の辰斯王が天皇に礼を失する事が多く、紀角宿禰等4名を派遣した。百済は辰斯王を殺し陳謝したので、阿華王を立てて帰国したとある。書紀と広開土王碑が似通った内容である。 

応神25年(297年)、元絶対年417年に高麗が使いを送って朝貢した。その上表文に「高麗の王、日本国に教う」とあり、太子は書き方が無礼と上表文を破り捨てたとある。上表文には「晋に朝貢しろ」と言う事が書かれていたのであろう。宋書高句麗伝によると、高句麗の長寿王は、413年晋の安帝に朝貢し楽浪郡公に封じられている。この時、安帝は倭国にも朝貢するようにと、高句麗に依頼したのであろう。応神37年(306年)、元絶対年426年に阿知使主を呉に遣わした。高麗の道案内で呉に行く事が出来たとある。宋書倭国伝には、425年讃司馬曹達を遣わして貢献とある。 

書紀の神功46年(246年)から応神41年(310年)の百済・新羅・高麗および呉と関連する記事は、干支2廻り繰り上げられており、元絶対年では366年から430年の事である。これらの記事は、三国史記・広開土王碑・宋書および七支刀などの資料と合致しており、書紀は歴史を120年改ざんしているものの、精緻に編年している。 
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