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1-2.日本書紀の編年は正確  [1.日本書紀の編年を解く]

日本書紀は正確に編年されていると言えば、そんな馬鹿な事と、一笑されるに違いない。しかし、書紀は神功39年(239年)に倭の女王が洛陽の天子に朝貢した。神功40年(240年)に魏の使いが詔書や印綬を持って倭国に来た。神功43年(243年)に倭王が献上品を届けたと、魏志倭人伝の記述を正確な年に載せている。また、神功66年(266年)に倭の女王が晋の武帝に貢献したことも、晋書の記事を記載している。神功皇后が魏志や晋書に書かれた倭の女王であることが史実であるかは別として、書紀が編年した、これらの絶対年は正確である。

1971年韓国忠清南道公州の宋山里古墳群で、百済の武寧王の陵が発見された。この陵からは金で出来た各種装身具をはじめとし、全部で108種2906点もの膨大な遺物が出土すると共に、墓誌が出て来た。墓誌には「寧東大将軍 百済斯麻王 年六二歳癸卯年・・・崩」とあった。朝鮮の史書である三国史記には、武寧王は斯摩と呼ばれ、501年に即位、523年(癸卯)に薨去(こうきょ)、同年に聖王が即位と記載されており、墓誌と一致している。武寧王が62歳で亡くなったのであるから、誕生は462年になる。 

書紀の雄略5年(461年)に、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)を天皇に仕えるように遣わされる時、軍君の妻が筑紫の加羅島で出産した。その子が嶋君で武寧王であると記載している。また、武烈4年(502年)に武寧王が即位、継体17年(523年)に武寧王が薨じ、翌年(524年)に聖明王が即位とある。書紀の絶対年は、武寧王墓誌と三国史記にほぼ一致しており正確である。この他にも、書紀の絶対年と三国史記が一致する記事がある。雄略2年(458年)蓋鹵王の即位(己巳[キシ]と記載、癸巳[キシ]の間違い)、雄略20年(476年)の高麗による百済の滅亡、雄略21年の汶洲王の興国、雄略23年の東城王即位である。 
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